「区切り」が意味と概念を生む (KIN14)

『13の月の暦』のツォルキンでは、KIN14「白い磁気の魔法使い」の今日から、新しいウェイブスペル(13日間)が始まった。しかし、この暦を使っていない人々にとっては、「今日から始まった」という感覚が意識されることはまず無いだろう。

一方、新月だった2/16(グレゴリオ暦→以下G暦)は太陰暦での新年で、アジア圏の多くの地域では、おそらくG暦新年(1/1)よりも「正月気分」で盛り上がっていたかと思う。

こうした事からも分かる通り、暦というものは、文化や宗教と連動する形で人が定めた「時間を便宜的に区切る道具」であり、唯一絶対のものがある訳ではない。そして、人々はその「便宜的な道具」に従って、予定を決めたり期限を設けたりしているのだ。

G暦で毎月25日に給与を支払ったり受け取ったりする人々にとっては、そこが「区切り」として意識されるし、3/3を「桃の節句」と思っていれば「ひな人形」を飾るという行動が伴ったりもする。しかし、G暦3/3を祝うのは、太陰暦の風習をそのままG暦の日付に移行させてしまった日本だけではないかと思う。

異文化を比較的容易に受け入れて来た(ある意味節操のない)日本人は、グレゴリオ暦元旦、二十四節気の立春、陰暦元旦と何度も始まりを祝う。加えて、商いの機会として創作されたバレンタインが成功した事で、昨今はハロウィンだイースターだと、ほぼ何でもあり状態。お祝いの背景も知らずにやたらめったら乗せられている状況を見るにつけ、ついパブロフの犬を思い浮かべてしまう。

そういう自分も基本は典型的な日本人で、初詣もすれば豆まきもするのだが、さすがに恵方巻きとかになるとアホらしくてやっていられない。元々、恵方巻きがある地域に生まれたのなら、きっとそれを盛り上げる活動にも力を入れたと思うのだが、商売のために全国区にして廃棄物を増やし、結果的に食べ物を粗末にするような風潮には、もう飽き飽きしているのだ。

さて、話を本筋に戻すと、これら全てのイベントは「仮のルールで決まった暦」に従って生じている現象である。だとすると、暦とは、切れ目なく流れゆく現象にそれなりルールで区切りをつけ、それによって意味を生み、特定の行動を生じさせるもの、と言う事も出来るのではないだろうか。

そういう意味では「言語」にも似ているところがあると思う。切れ目なく流動変化するものに区切りを生むのが「暦」だとしたら、切れ目なく存在しているものに区切りを生むのが「言語」だとも言えるからだ。そんな事を思っていたら、ちょうど、旧暦新年の直前「マレーシアで未知の言語発見 男女平等・平和な社会を反映」という記事を目にした。

ジェデク語と呼ばれるその言語には、「職業」や「裁判所」に当たる言葉がなく、「借りる」「盗む」「買う」「売る」などの所有を表す動詞もない一方で、「交換」や「共有」を表す語彙は豊富だという。西洋社会よりも男女間が平等で、暴力がほとんどなく、子どもらは競争しないことを良しとされているらしい。

記事には「生活様式を反映した言語」と書かれているが、「言語体系がそうだから生活様式もそのようになった」のかもしれない。人はどこかで「同じ人類、ほぼ同じようにものを見て、同じように感じてるはず」という無意識の刷り込みがあるものだが、実際には、文化的・言語的影響等によって、全く違った世界を味わっている可能性もあるのだ。

言語学者の中ではまだ論争もあるようだが、例えば、アマゾンの部族ピダハンには過去や未来を示す言葉が無く、ヤノマミ族には数の概念が1,2くらいしかなく、それ以上は「沢山」になってしまうという。たとえ生理学的には目にしているものが同じでも、そこに時間的空間的「区切り」を見出し、命名してそれを固定しない限り、認識される世界は安定しないのかもしれない。

言い方を変えれば、何かを対象化して名前をつけ、認識することではじめて「意味」が生まれ、それを使い続ける事で「概念」が定着し、固定化されるのかもしれない、という事だ。私たちは、ある意味、心(=世界)を安定化させたくて「区切り」をつけているのではないだろうか。

しかし、それも行き過ぎると今度は「不自由」になる。世界をどう見るのか?どこまで意味を固定化するのか、それによって私たちの心の状態やものの見え方は変わってくる。実際、私は『13の月の暦』を使うことで、それを体験し続けて来た。可変と不変のバランスにこそ、世界の創出と知覚の秘密があると思う。

13の月の暦TIMESCORE 「銀河の月」イラスト

『13の月の暦(ドリームスペル)』は銀河の時間の知恵である、というアグエイアス夫妻の言葉を感覚的に信じられるのは、その構造やバランスが絶妙であり、実際に認識を変容させる力を持っているからなのだ。(D)

銀河の月15日/KIN14 白い磁気の魔法使い