Kulika Logo


青い水晶の嵐の年(2004.7.26 - 2005.7.25)自己存在の月
ヒマラヤ・インド・シンクロニック・ジャーニー


自己存在の月11日(G10/28)2・空歩く者 KIN93「ツォペマの桃源郷」(by  D)

5時に起床し、まず湖を一周コルラ。空には、まだ北斗七星やオリオンが瞬いている。特に金星の輝きは力強い。湖畔のお堂(といっても屋根だけ)に座す金色 のパドマサンバヴァ像に五体投地し、灯明を捧げてから、湖を見渡せる小高い丘に登って日の出を迎える。朝食を摂りにホテルに戻り、ひと休みしながら窓の外 を眺めていると、湖を囲む山の頂上付近で何かが朝陽に反射してキラリと光った。多分あの場所が、今日の第一目的地「パドマサンバヴァの洞窟」だろう、と直 感する。フロントで確認したらやはりそうで、徒歩とバスでの行き方を教えてもらったが、結局バス停近くにいたトゥクトゥク(3輪バイク)を使う事にした。 曲りくねった坂道を登る事およそ30分、巨大な岩と数え切れない程のタルチョ(お経が書かれた祈りの旗)がはためく場所に到着した。ホテルから見えていた 布状のものはこれだったのかと納得する。入口付近にある小屋で、タルチョとカタと線香を手に入れ、大理石で整えられた階段を登っていくと、岩の隙間に設け られた扉に辿りついた。「WELCOME TO THE SECRET CAVE OF GURU PADMASAMBAVA」と書かれた小さな看板が、扉の横に取り付けられている。洞窟守のおじいさん(おそらく修行僧)の案内に従って靴を脱ぎ、階段を 下っていくと、巨石に囲まれた空間に大理石の玉座があり(ダライラマ法王用)、その向いにパドマサンバヴァの像が安置されていたので、この地まで導いて下 さった事に感謝してカタを捧げた。

外に出て上に続く道を歩いて行くと、僧衣のお婆さんがコルラのための道がある事をゼスチャーで教えてくれた。この巨大な岩場には、洞窟 (窪みや隙間)にへばりつくように瞑想小屋がいくつも建てられていて、どうやら修行僧が住み込みで修行をしているようだ。どの入り口にもNoが振られてい たので、意識して見ていたら、No24まで見つける事ができた。半周程巡ったところで展望が開け、眼下に豆粒のようなツォペマが見える絶景ポイントに差し 掛かった。ここでタルチョを結んでからさらに半周進むと、先のお婆さんにまた巡り合った。ゼスチャーで一周回ってきた事と感謝の気持ちを伝えると、彼女も ゼスチャーで「ここが私の家、ここで寝起きしてるの」と目の前にある小屋を示してくれた。小屋に帰るお婆さんを見送った後、岩場の一番高い所まで登ってみ ると、お香を焚くための小さな石塔があったので、入口で入手した線香を焚いて祈り、天真五相(新体道の型)を捧げた。帰りにもう一度、最初の洞窟に立ち 寄ってみると、今度は可愛らしい尼さんが案内をしてくれた。他に誰も入って来なかったので、30分ほど貸切で瞑想することができた。私は、ある種の重低音 的バイブレーション(音ではない音)を感じたが、Lはそういったものの他に「昔、宇宙から彗星のようなもの(パドマ?)が降ってきて、それがこの付近の上 空で分裂していくつかの湖をつくった」というようなヴィジョンも浮かんできたという。確かに、付近の地形には、隕石か何かが落ちたような形状が見られるし (あくまで素人目でだが)、パドマ生誕伝説の中にも「阿弥陀仏の舌から一筋の赤い光が発せられ、流れ星のように湖へと落ちていった」という一節があったり するので(『パドマサンバヴァの生涯』/春秋社)、あながち的外れなものとは思えない。それどころか、後でたまたま目にする事になった看板に「古代この付 近に7つの聖なる湖があったが、今は3つしか残っていない」という一文を発見した時には、Lの観たヴィジョンと直結したような印象さえ受けた。瞑想を終え て外に出ると、最初の時にいた洞窟守のおじいさんが、私達に向って合掌しながら何やらお経を唱えて下さったが、意味は当然分からないので、私達も合掌で応 えた。

帰りはのんびり歩きながら、この土地の自然をじっくり味わってみる事にした。岩場の裏手(ツォペマと反対側)にある2つの小さな湖 の間に、美しい村がある事を知ったのは、朝トゥクトゥクで通った時であった。ツォペマよりさらに高い場所にある、カルデラ状の山に囲まれたごく狭いエリア なので、それだけで隠れ里のような雰囲気があるのだが、ここに建ち並ぶ家や木々の様子は、まさに「桃源郷」を彷彿させるものだった。桜や桃のような木々が あちこちで花を咲かせているかと思えば、柑橘系の果物なんかもたわわに実っているし、何より気候が穏やかで爽やかなのだ。程よい間隔で建つ家のつくりが、 スッキリと洗練されているのも見逃せないポイントだ。石で出来てはいるが、雰囲気は日本家屋に近いかもしれない。だから村全体も日本の風景にどこか似てい る気がするのだろう。カルデラ状の峰の外側に出ると、突如展望が開け、下方に無数の棚田を見る事ができた(ツォペマとは違う方角)。その先の針葉樹林で は、野性の馬が数頭で草を食んでいたし、さらに下って湖の方へ向うと、ミカン、バナナ、竹林、菩提樹など、実に多様性に富んだ生態系が、人々の暮らしと共 にある事を発見した。

ホテルでランチを摂ってひと休みし、夕方、ついにA・テンジンを探しに出かける事にした(3日「オーパーツとアショ カ王の柱」参照)。当初は誰かに通訳を頼もうかと思っていたが、時間的にあまり余裕もないので、せめてチョペ代表(この地へ訪れる事を勧めて下さった)や 息子のテンジン・チョパクさん(A・テンジンの事を教えて下さった)にお見せできるよう、記念撮影だけでもしに行こう、という事になった。ウォーミング アップに湖をコルラしていると、食べ物をしつこく売りつける人がいるので、様子を見ていると、それが湖にいる魚用のエサだという事がわかった。一袋手に入 れ(しつこい人とは別な所で)湖にまいてみると、これが大変。見た目、フナとかコイの類なのだが、半端でない数の魚がピラニアのように群れてエサを奪い合 うのだ。ワーワー言いながらエサやりを楽しんでいると、インド人旅行者のグループに一緒に写真に写って欲しいとリクエストされた。どうやら日本人が珍しい らしい(そういえばダラムサラでもそんな事があったのを思い出した)。そんな事をしているうちに一巡りしてしまい、段々日が傾いてきたので、真剣に探索 モードに入った。

「恰幅が良く、足が悪いので杖をついている」という特徴だけを頼りに、その条件を満たす女性を見つけたらとにかく声をかけてみる事にした。チョパクさんの言っていた通り、彼女はこの辺りでは有名人らしく、 最初に声をかけた人が(ハズレだった訳だが)「A・テンジンならコルラしてるか、お寺か坂の上にいるよ」と教えてくれた。お寺に行くと、円陣を作ってお経 を唱えている集団の中に杖を持つ女性がいたので、「きっとあの人だ」と待っていたが、立ち上がったらどうも特徴と当てはまらない面があるし、遠方から巡礼 に来た人たちのようだったのでパス。次に声をかけた二人組みのおばさん(この人達もハズレ)は「坂の上に住んでるからここを登っていけばいい」と教えてく れたので(皆さん親切だけどかなりアバウト)、ブラブラしながら坂を上ってみたが、あまりに大雑把で分からず、途中の寺院で記念撮影などしてから、もう一 度目印の角の店まで戻り、店員のお姉さんに聞いてみる事にした。幸い彼女は英語が話せたので、「何とかなりそうだ」と思っていたら、そこにちょうど先程の 二人組みがやってきて、チベット語でお姉さんに事情を説明してくれた。詳しい場所(それでもまだアバウトだが)を英語で教えてもらい、皆に感謝してから坂 道を登っていくと、上から尼さんが降りてきた。と、坂の下から、またあの世話焼き二人組みが、その尼さんに向かって何やら叫んでいる。多分、「そこの二人 をA・テンジンの家の近くまで連れてってやってよー」みたいな事だったのだろう。人の良い尼さんは、急いでいる様子だったのにも関わらず、降りてきた坂を わざわざ私達と一緒に戻って(しかもかなりの距離)、家のすぐ近くまで案内してくれた。尼さんに御礼を述べ、通りから横に入る急な階段を登ると、すぐに一 軒の家が見つかった。夕食の準備をしているような気配なので、玄関近くで、おそるおそる「A・テンジンさん?」と呼びかけてみると、インド人の女性が顔を 出して、「こっちよ」と隣の敷地まで連れていってくれた。皆、本当に親切だ。入り口に近付くと、ちょうど読経が終わるところだった。

ノックすると、尼さんが出てきたので「A・テンジン?」と聞くと、そのまま中に招き入れてくれた。もう食事時だし、「ひと言挨拶と記念撮影を」と思っていた私達は、ちょっと戸惑ったが、中にいた数名の尼さんがニコやかに迎えてくれ、すぐに奥の部屋の扉が開いた。満面の笑みで迎えてくれたその人こそ、探し求めた A・テンジンご本人だった。タンカと活仏の写真で埋めつくされた奥の部屋に通されたものの、言葉が通じないので、「チョペ・ツェリン」とか「テンジン・ チョパク」とか人名で雰囲気の会話をし(?)、あとは記念撮影に入らせてもらった。お茶まで出して頂き丁重にもてなして下さっているのに、チベット語の一つも話せないで恐縮していると、なんとそこに天の助けが!ダラムサラから親戚一家が到着し、英語の話せるご主人(Kさん)がいきなり通訳をして下さったの だ!なんというタイミング!!お陰で私達が何者で、どこからやってきたかも分かって頂けたようだ(もっともチョペ氏が法王事務所代表として日本におられる事はご存知だろうから、大体の事は通じていたと思うが)。親戚ファミリーと尼さん全員で記念撮影をして、おいとましようとすると、お土産にカタ、りんご、 そしてA・テンジンお手製の木彫りのパドマサンバヴァ像をプレゼントして下さった。アポなしで突然押しかけてきた見知らぬ(しかも言葉も話せない異国の)人間に、こんな対応をする事が果たして私達にできるだろうか。見えなくなるまで見送って下さった尼さん達の笑顔と、皆さんの思いやりの心に胸を熱くしながら、坂道を下ってホテルへと戻った。信じ難いほどの連続シンクロに興奮気味だった私達だが、少し落ち着いてから考えてみると、会った事もない人(しかも有名な尼さん)の家を訪ねるのに、手土産一つ、カタ一枚持たずに行くなんて、失礼千万なことだと恥ずかしくなってしまった。ただ、今は、自然の流れ(仏縁)がこの出会いを導いてくれた事に、感謝するのみだ。

ハー モニック・コンコーダンスから12回目に当たる満月が夜空に煌々と輝いている。夕食をしに通りに出ると、さっきA・テンジン宅でお世話になったばかりのK さんファミリーとバッタリ再会した(何故かこの時ひとコブ牛の群れが通過)。簡単に御礼を述べて分かれたが、彼らがA・テンジン宅にいた時間も、そんなに 長くはなかった事になる。改めてタイミングの絶妙さを感じた。他にも、最初にA・テンジンの事を教えてくれた女性に再会したり(無事会えた事を伝えられ た)、両替しようと立ち寄った店では、数日前お世話になった「法輪タクシー」の運ちゃん(マンディからデリーに行っていたはず)にまで再会したり、楽しい 魔法に掛かりっ放しの私達であった。雰囲気で選んだ「ZIGAR MONESTLY'S CORNER レストラン」の夕食も、今回の旅の中でもベストと言える位の美味しさで、全てはパドマサンバヴァのお導き、と思うような一日だった。そういえば、今日は母の銀河の誕生日でもある。出発前に読んだ『パドマサンバヴァの生涯』(電気の月13日を参照) は、発刊日が2000・7/15で父の銀河の署名(KIN88)とシンクロし、その5年後(2005)の同日(※)は母の銀河の署名(KIN93)とシン クロする。5年というのは、「13の月の暦」で365日の暦と260日の暦がちょうど5日ズレの関係になる特別な周期なので、こういう現象が生じるのだ が、今回の旅には、その5年を圧縮して表現する5日間が含まれているのだ。始まりは5日前で(この日私達はダラムサラで初めて法王の姿を拝見し、ギュト寺ではカルマパにも謁見)、今日がその最後の日に当たる。パドマについて書かれた本の出版日から5年間(2000〜2005)という期間の中で、それを圧縮表現する特殊な5日間(KIN88〜93)は7回巡ってくる。だが、チベット暦でも12年に一度のパドマの年にそれが重なるのは、このタイミングしかないのだ。しかも、それをパドマの生誕地で、晴れ渡った満月(欧米等 では皆既月食)の日に迎えるなどという事は、こちらだけの都合ではどうにもならない事だろう。シンクロニックジャーニーの醍醐味は、まさにここにあると言って良いだろう。
 
※遅れに遅れたこのダイアリーのUPは、2005・7/15(KIN93)にようやく成就した。

←BACK NEXT→