「自転車の歌」と「自転車のたとえ」

クセになる歌というのがある。『ボヘミアン・ラプソディ』を観てから、我が家ではユーチューブでライブを流しっぱなしにする事が多くなり、結局、『Queen GREATEST HITS』もゲットしてヘビロテ状態に。おそらく映画を観た人の多くが、これに近いパターンを踏襲するのではないだろうか?

Queenの曲にはそれだけ引力があるのだと思うが、このアルバムの中にある「Bicycle Race」という曲は、特にリフレイン力に満ちていて、知らないうちに口ずさんでしまう危険な曲である。「自転車、自転車、自転車に乗りたーい!」という、駄々っ子の叫びのような歌詞も妙に頭に残る。

だが、今回書こうと思ったのは、実はこの歌のことではなく、稽古における継続性と加速、減速の話である。先日、剣武天真流蒼天支部道場の稽古納めがあって、気持ちよく心身を動かした。翌日の天真体道瞑想クラスで実感したのは、前日の稽古の勢いがまだ続いている時は、そこにちょっと新たな動きを乗せるだけで、体感が一気に深まるという事だった。

よく稽古ごとでは「1日休むと取り戻すのに3日かかる」などと言われる。この数字の比率にどの程度の根拠や信憑性があるのかはさておき、サボると感覚が鈍ったり動きが悪くなったりする事や、間が空けば空くほど感覚を取り戻すのに時間を要するというのは、自分の経験を振り返ってみても確かだと思う。

一方で、とても熱心に稽古をしていた人(あるいは何かを続けて来た人)が、ある日、突然パタっとやめてしまう場面も少なからず目にして来た私は、お釈迦さまのいう「中道」のことなども含め、稽古の進め方について色々と考える事が多くなった。そのプロセスで、「これが一番しっくり来るな〜」と思ったのが「自転車のたとえ」である。

・毎日続けていると軽く漕ぐだけで(時間や量が少なくても)そのスピードが維持される。
・サボるとスピードが落ちて、サボり続けると完全に止まる。
・一度完全に止まってから再スタートするのは結構大変だが、漕げば再び動きだす。
・毎日全力で漕ぎ続ければ加速し続けるが、ある時、疲れきって漕げなくなる。
・場合によっては、漕げなくなるだけでなく、二度と漕ぎたく無くなる。
・一生走り続けるものだとして、最も遠く(進んだ状態)に到達するにはどうしたら良いか?
・一生の長さは誰も正確に知らないという前提で、この問いを考えながら進むと楽しく行ける。

「漕ぐ」というのは「稽古する」という言葉に置き換えられるだけでなく、あらゆる「行為」にも置き換えられる。注意が必要なのは、「到達」とか「進んだ状態」が何を意味するのかを明確にしておく事であり、そこを吟味していないと、何を稽古していても何を続けていても、途中で何をしているのかが分からなくなるだろう。

それと、これはあくまで自分にとって「しっくり来る喩え」であるだけで、他の方にとってどうかは分からない。なので、「これは役に立つかもしれないな」と思える方だけ、参考にしていただければと思う。(D)

倍音の月27日  8・手(KIN47)

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